
4月17日:過越し
神様の救いは、神様からの救いの申し出を受け入れるすべての人々のためのものです。

神様はすでにモーセにご自身の力を示していました。だからモーセは、神様がモーセを助けてイスラエルをエジプトから連れ出すことを信じることができました。しかし、モーセはもっと願うことがありました。彼は神様が自分と共に歩んでくれることを望みました。 モーセはいいました。「もしあなた自身が一緒に行かれないならば、わたしたちをここからのぼらせないでください。」

パラオの軍隊と紅海の間でにっちもさっちも行かなくなったイスラエルは神様に頼ってその信仰をしっかりと摑む必要がありました。その時モーセは神様の救いを確信しました。なぜなら、神様はすでに勝利していたからです。

神様はイスラエルに自由だけを与えたわけではありません。イスラエルにエジプトの富をも与えました!エジプトは神様を礼拝することを断りました。その富は、神の神殿を建てるためにイスラエルのものとなりました。

– 復活 ルカによる福音書 24:1-7 日曜日の明け方早く、待ちかねた婦人たちは香油を持って墓に急ぎました。 着いてみると、どうしたことでしょう。 入口をふさいであった大きな石が、わきへ転がしてあるではありませ復活んか。 中へ入って見ると、主イエスの体は影も形もありません。 「いったい、どうなってるのかしら。」きつねにでもつままれたような気持ちです。 すると突然、まばゆいばかりに輝く衣をまとった人が二人、目の前に現われました。 女たちは、もう恐ろしくて恐ろしくて、顔も上げられません。 地に伏したまま、わなわな震えていました。 その時、二人が声をかけました。 「なぜ生きておられる方を、墓の中で捜しているのです。 あの方はここにはおられません。 復活なさったのです。 まだガリラヤにおられたころ、何と言われましたか。 メシヤ(救い主)は悪い者たちの手に売り渡され、十字架につけられ、それから三日目に復活する、と宣言なさったではありませんか……。」 旧約聖書:ゼカリヤ書 12:10, 11 その時、わたしはエルサレムの全住民に、恵みと祈りの霊を注ぐ。 彼らは、自分たちが突き殺した者を見て、まるでひとり息子をなくしたように彼のために泣き悲しみ、長男が死んだ時のように彼のことで嘆き悲しむ。 その時のエルサレムでの悲しみと嘆きは、神様を敬ったヨシヤ王が、メギドの谷で殺された時の嘆きよりも深い。 イスラエルに祈りと恵みの霊が注がれ, 彼らが刺したイエス様を見ることが出来ますように祈りましょう。

神さまはイスラエルに過越の子羊を捧げるきめ細かい指示を与えられ、イェシュアはその全てを満足させました。イェシュアが十字架につけられた日をめぐって今でも論争が続いていますが、いつもとは異なる年であったことは確かだと思います。(私たちはSir Robert Andersonの「 The Coming Prince(再臨される王さま)」を参考にしています。)

– 十字架の処刑 イザヤ書 53:4-8 ところが、彼が背負い込んだのは、実は私たちの悲しみであり、彼を押しつぶしたのは、私たちの嘆きでした。 私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して神様に罰せられているからだと考えていました。 しかし実際は、私たちの罪のために傷つき、血を流したのです。 彼は私たちに平安を与えようとして、進んで懲らしめを受けました。 彼がむち打たれたので、私たちはいやされました。 私たちは神様の道を踏みはずし、羊のようにさまよい出て、自分勝手な道を歩いてきました。 ところが神様は、私たち一人一人の罪を彼に負わせたのです。 彼は痛めつけられ、苦しみ、悩みました。 それでも、ただのひと言も口にしませんでした。 子羊のようにおとなしく屠殺場へ引いて行かれ、毛を刈り取られる羊のように、非難をあびせかける者たちの前に黙って立ちました。 人々は彼を裁判にかけ、死刑場へ引き立てました。 はたして、彼が死ぬのは自分たちの罪のためであり、身代わりに刑罰を受けて苦しんでいることを知っていた者が、その当時いたでしょうか。 詩篇 22:1、11、14-18 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。 イザヤ書 53:10、11 彼を傷つけ、悲しみで押しつぶすのは、実は神様の計画だったのです。 罪が赦されるためのささげ物として、そのたましいをささげる時、彼は多くの子孫を見ることができます。 しかも彼は復活するので、神様の計画は彼の手によって陽の目を見ます。 彼は、自分のたましいが苦しみもだえた末、神様のみわざが実現するのを見て、すっかり満足します。 わたしの正しいしもべは、このような苦しみを経験して、多くの者を神様の前に無罪とする。 彼が人々の罪をいっさい負うからだ。 ヨハネによる福音書 19:16-19 これでは、しかたがありません。 ピラトもあきらめ、十字架につけるため、イエスをユダヤ人に引き渡しました。 十字架につけられ、埋葬されるイエス ついに、イエスはユダヤ人たちの手に落ちたのです。 イエスは、十字架を背負わされ、エルサレム市外の、「がいこつ」〔ヘブル語で「ゴルゴタ」〕という場所へ引っ立てられて行かれました。

На закате солнца в день после Пасхи на 15-ый день месяца Ниссан начинается Праздник Опресников.

日暮れになると、ユダヤ人とクリスチャンは家族や友達と一緒に過ぎ越しの伝統的儀式をお祝いします。わたしたちはモーセとその家族がエジプトではじまったこの伝統を守り続けるでしょう。エジプトであの夜に何が起こったのか、その何千年後にはエルサレムで何が起こったのか、現在において世界中で何が起こっているのかをおぼえてお祝いしましょう。
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